私の家で飼っている猫が、また1匹死にました。17歳でした。最大で4匹いた猫は、とうとう残り1匹だけになってしまいました。

今更このブログを開いてこのことを書こうと思ったのは、「我が家の猫の健康管理に問題があった」ということ、「母親の生命観や終末期治療に対する考え方が猫に対して強く働いていたことによって、適切な処置が取れなかった」ということ、またそれを認識しておきながら猫の管理をサボタージュした私の責任について、文字にして留めておきたかったからです。

 

事の次第について、時系列順に書いていきます。

今回死んだ猫の具合が悪くなったのは2ヶ月ほど前のことです。だんだんと食欲が衰えていき、後ろ足をひきずるようになりました。

そこでかかりつけの動物病院Aに連れて行ったところ、「何らかの原因で神経が悪くなっている」とのことで、薬を処方してもらいました。そしてその薬を猫に与えたところ、後ろ足が動くようになりました。

ところが、猫は17歳という年齢にそぐわないほど元気に動くようになり、今まで絶対に欲しがることのなかった人間の食べ物を欲しがるほどに食欲が亢進しました。私はおかしいと思いながらも、猫の経過を見ることにしました。

そのような状態が1ヶ月程度続いたところ、ある日を境にまた食欲が衰え始め、ほとんど食事ができなくなり、動きも鈍り始めました。

主に猫の世話を担当している母親は、これを老衰と判断し、治療を続けることに対して消極的でした。しかし動物病院Aの診断の曖昧さを不審に思った姉(猫の具合が悪いと聞いて帰省していた)が、別の動物病院にかかることを母親に強く勧めました。

そして動物病院Bに連れて行って血液検査を受けたところ、猫の腎臓の機能がほとんど弱っていたことが分かりました。

食事ができないということで栄養点滴を打ち、腎臓の回復を待ったのですが、時既に遅く、それから1日で死んでしまいました。

 

端的に言って、動物病院Aの診断に問題があったと思います。そして今までこのような曖昧な診断を続けてきた動物病院Aに対して、病院を変えるという選択肢を思いつかなかったことも問題です。

 

母親はなぜもっと早く、最初の段階で他の病院にかかるという選択肢をとらなかったのでしょうか。それは、母親がリスクを恐れるデリケートな性格であることや、積極的な通院・投薬に否定的であることが影響していたと思います。

以前、別の老衰した猫を動物病院Aに連れて行って血液検査を受けたところ、容態が悪化しすぐに死んでしまったことがありました。母親はそれを「老衰しているのに動物病院に連れて行ったせいだ」と考え、今回も猫を動物病院に連れて行くことで容態が悪化するリスクを恐れていました(もっとも今回、別の動物病院Bにかかったことで、このときの動物病院Aでの血液検査の際、血液を必要以上に採取されていたことが分かったのですが)。

確かに老衰は腎臓の機能を悪くした原因ですが、老衰によって何が起きているのか、それ以上のことを母親は知ろうとしませんでした。こうした変化への恐れの感情や、医学への価値観の偏りが、健康状態の改善の妨げになったと思います。

 

原因究明をサボタージュしたのは、私も同じです。私も自分の違和感をごまかさず、猫の病気の原因を探り治そうとする意志が強ければ、かかりつけの動物病院の診断に疑問を持ち、いい動物病院を探したり、早めに健康診断を受けさせることを勧めたり、母親の態度に強く違和感を持つことができたでしょう。

 

ある生命の誕生から死まで、100%の責任をもって一緒に暮らし、誠実に向き合うのは本当に難しいことです。動物は人間の「鏡」です。人間の持つ愛情のいびつさ、動物に対する無知といった歪み・偏りを、動物はその存在を以ってありのままに、容赦なく映し出します。

そのことに気付かず、動物の表面的な愛くるしさや弱さに満足し、心を奪われているうちは、人間が動物を飼うことによって得られる、最も深い学びに辿りつくことはできないと思います。

今回、私は動物の死について悲しむ資格もないことを学びました。動物の世話を全うできず、生命を自分の愚鈍さのために殺しているうちは、悲しむことなど感情の消費でしかありません。それは、人として何ら有意義なレスポンスを得られない、一方通行の、一過性の共感に過ぎません。

 

私もあと何年生きられるか分かりませんが、私が死ぬまでに、動物達との生活とその記憶から、少しでも多くのことを学びたいと思います。

そして、私が死ぬ間際には、先に死んでしまった動物達に再び会いに行き、私が彼らから学んだことを再び彼らに映し出してもらいたいと思います。

もし動物達に再び会えたなら、たぶん彼らは生前と同じように、動物として中庸なありかたで、澄んだまなざしを向けてくれるでしょう。その時はじめて、彼らは最も深大な生命の意味を、私に教えてくれる予感がするのです*1

*1:これは「動物達と天国で会いたい」という妄想・願望をポエティックに表現したのではありません。例え想像の世界のことであったとしても「死の間際において動物達に会う」ことが叶えば、先述したように動物達は人間の「鏡」となり、死の間際に置かれている私を映し出すことでしょう。それは私の全人生の縮図、私の生命の縮図を映し出すことと同義です。このように自分の死の間際を想像し、記憶の中の動物達にその姿を投影してもらうことによって、「差し迫る死によって炙り出される私の全人生と、動物達によるその投影を、死の間際に置かれていない現状でも先取りして経験することができる」とは考えられないでしょうか。それはすなわち、自分の人生をより立体的に、かつ俯瞰することに他なりません。言い換えれば、動物の生死から、自分の生死の意味を学ぶのです。これはペットという、人間とは異なりながらも、人間にとって親密である特殊な存在があってこそ成り立つ視座だと思います。人によっては譫妄だと思われるかもしれませんが、これが現時点で私の考え得る、彼ら動物達が私達人間と共に生きてくれたことに対する、最大限の意味付けです