私は嫌いな人や愚かな人・くだらない人を無視することができない。なぜそれができないのかと言えば、私が人間そのものに対してあまねく(個人的で一方的な)情をかけているから。また、私が常に他人に対して受け身の体勢を取っていて、他人の一挙手一投足から情報を受け取りすぎてしまうことも原因だと思う。こうして私は、外界から閉ざされた精神世界の中でひとりでに消耗していく。
ところで、いま私がいる環境には、交流する相手を利害で選ぶ人間が少なからず存在する。使えない人間、つまらない人間は切られるということだ。このような利害主義者の他人への態度は、私の他人に対する姿勢とは逆と言える。
私も利害主義者のように、よけいな他人への情を捨ててしまえばもっと生きやすくなるはずだろう。しかし私は捨てることをしない。それはなぜかと言えば、他人への情が生きるエネルギーの一つになっているからだと思う。平等主義は、生きるために必要な他人への愛と仮想敵*1を与えてくれる。能動的に好きな人を得たり、嫌いな人を避けたりする労力も要らない。平等主義は愚鈍な受動型人間への救いでもある。
つまり、私は恐らく「愚鈍な自分のままで生き続ける」ために、平等主義を採用している。しかし今の環境で平等主義を採用すると、仮想敵の数が増えすぎてしまう。敵の数が多ければ自分が消耗するのは必然といえる。


「普通の人」なら恐らく数秒で答えを導き出せる話を、無駄に硬い文章にして複雑化させる自分はなんて倒錯した人間なんだろうと思った。
「自分は主体性のない人間であり、無から有を産む一種の錬金術(平等主義や思考の複雑化・敷衍)によって日々の活力を得ている。そして、自分はその錬金術に依存しているために、その錬金術によって問題が生じるとこじれる」ということを認識しておく必要があると気付いた。

*1:平等主義を採用した結果、必然的に生じる「身勝手な人」の存在