大学1年目終了

大学1年目が終わった。新しい環境に身を置いて1年が経ち、自分の勉強している「現代音楽」やその周囲のことについて少し客観的に考えられるようになったと思うので、新しい環境について気が付いたことを順不同に書いてみたい。

  • 「現代音楽」の中にも志向するものの違いや、それに基づく「思想の縄張り」が存在する

「現代音楽」の界隈をざっくばらんに分類すると、聴覚的・知的好奇心に基づく新しい音楽を求める層と、調性的・古典的な音楽の感覚を「現代音楽」の響きの中に再現する層が存在する。前者は前衛であり、後者は古典主義とも言い換えられる。
その帰結として、「現代音楽」は超ニッチなジャンルでありながら、前者はアカデミズムの色彩を、後者は商業主義的な色彩を帯びる。


両者に共通しているのは、「歴史的な作品の存在を自らの創作行為の念頭に置く」ということだ。前者は過去の作品にない新しい感覚を求め、後者は過去の作品の感覚を現代性の中に再現する。
「現代音楽」とはすなわち、「歴史の延長線上に位置づけられた音楽」に他ならない。逆に言えば、歴史を参照しない「現代音楽」は存在しないということになる。
そして身も蓋もないことを言えば、「現代音楽」における音楽の創作とは、自らが創作した作品を歴史(音楽史)にどうコミットさせるかという極めてエリート的な欲求に基づく試みでもある。
アカデミックな教育機関への参加または刷新、コンクールへの応募、楽理的(ときには衒学的)なプログラムノート・・・現代音楽界隈に見られるこれらの志向はすべて、自己を歴史に参加させる試みとして定義することができる。
極端に言えば、どのような音楽作品を創作するかよりも、どのような理論的根拠によって自己の創作または自己そのものを歴史に位置付けるかが重要視されている。こうした「歴史への参画」というモチベーションこそが現代音楽界隈の「コア」だと私は考えている。


このような考え方に対して、「純粋に知的好奇心や音楽的欲求に基づいて現代音楽の創作をしている人間もいる」という批判ができるかもしれない。
しかし、その知的好奇心や音楽的欲求はすべて歴史の延長線上、言い換えれば西洋の古典音楽の聴体験に依存している。新しい音楽・現代の音楽を作ろうという試みには、当然その前提に古い音楽・過去の音楽があるはずだ。西洋の古典音楽を聴かずに現代音楽を創作している人間は恐らく存在しない*1
つまり古典音楽の創作とは、自覚している・していないに関わらず、歴史的な行為であると言える。「現代音楽」の創作をする限り、歴史から逃れることはできない。「現代音楽」界隈にコミットした時点で、その人間は既に歴史に参画しているのだ。そこから離れるには、歴史に背を向け、シミュラークルを創作し続けるしかない*2
歴史への接続と解釈。その解釈に対する現代からの応答可能性を探ること。これが現代音楽の創作における要件だと言えるだろう。


疲れたので今日はここまで。

*1:仮に過去の音楽を全く知らずに現代音楽を創作する人間が存在したとして、その人のつくる作品の「現代性」はどのようにして評価・定義することができるのだろう

*2:私の近くにも、そういった志向性を抱いているように見える人が少なくない。その事自体を否定する気は毛頭ないし、私自身が同じようにそこを志向する可能性も捨ててはいない